内モンゴル仏教寺院紀行 その1 らくだ・佐々木 浩 |
||||
3200キロを走る | ||||
7月中旬、中国の内モンゴルの仏教寺院の調査旅行に出かけた。東洋大学教授である菅沼晃先生(前東洋大学学長)の指導のもとに、3年計画でモンゴル地域―すなわちモンゴル国を中心に内モンゴル、ブリヤート・モンゴルおよびティーワ(トゥワ)、カルムイク等―の仏教寺院の調査を行っており、今年はその2年目に当たる。 今回の調査対象地域は、現在の中国内モンゴルの内、戦前にこの地域に存在していた旧蒙古連合自治政府(当時の日本人は徳王政権とも呼んでいた)にほぼ相当する地域である。この地域は現在の中国の内モンゴル自治区のほぼ中央部に相当する。今回の調査は、この地域に存在する、若しくはかつて存在していた仏教寺院を中心に調査旅行を行い、私は主にはモンゴルの仏教寺院の伽藍・建築様式について現在の状況を調査した。 今回の約2週間の調査期間に車で走破した距離は約3200キロほどになる。菅沼先生にはいろいろとご指導をいただき、また現地の教育機関、図書館あるいは文物管理部門そしてモンゴル人やチベット人の多くの僧侶の方々にいろいろとお世話になり祝詞をいただいた。東洋大学大学院博士課程のバイカル氏には実際の調査行程上でひとかたならぬお世話をいただいた。まずはとにかく皆様にお礼を申し上げたい。 なお、専門用語等で分かりにくい部分また説明不足等は全て筆者の至らぬところである。ひとつだけ付け加えさせていただくと、モンゴルあるいはチベットの仏教について、かつて「ラマ教」という様な言葉が用いられていたが、現代では原則的にはこの言葉はいろいろな意味で不適切であるということで用いないのが常識である。「チベット仏教」あるいは「モンゴル仏教」という言葉を一般的には用いているが、文献からの引用についてはやむを得ずそのまま用いている。まだまだ誤謬等あるのではないかと思われる。読者のご指導を仰ぐ次第である。 |
||||
貝子廟にて | ||||
以上の行程で調査した寺院の内、今回は長尾雅人先生の「蒙古学問寺」等の文献でも紹介されている、現在のシリンホト(錫林浩特)市にある貝子廟の寺院建築の現状について紹介をしたい思う。最初に、文献からの引用をしてみたい。
貝子廟、またの名を「アリア・ジャンルン・パンディタ・ヒードゥ」といい、清朝は「崇善寺」という名前を与えた。シリンゴル盟のシリンホト市内にある。(中略)貝子廟第2世パンディタが書いた「法輪大殿崇善寺史」(清嘉慶年間木刻版、モンゴル文)の記録によると、今から200年余り前に一人のチベットのジャンルン地方の高僧がアバガナル地方に回って来て、この場所でお寺を創建し、仏法を広めるための助言を行った。このため、この高僧はダライラマ7世からパンディタの称号をもらった。その故に、このお寺を「アリア・ジャンルン・パンディタ・ヒードゥ」とも称した。 またこの寺院には、上記の文献には記述がないのだが、戦前の多くの日本人の旅行記等には寺院が背にしている丘の上に壮大な十三オボーというものがあったことが記録されている。例えば、磯野富士子著「冬のモンゴル」では、「丘の上には有名なオルドン・トロガイの十三オボが並んでいる。オボとは、天を祭るための、石を積んだ祭壇であるが、ここのは、頂上の巨大なオボの左右に小さいのが六つずつ並んでいて、子どもを連れたお母さんのようだ。その下に正面を赤く縫った廟が整然と立ち、その両脇にはラマの住む泥の家が細かく並んでいる。」とある。この他いくつかの文献の記述を見ると、この十三オボーというものがこの地域のシンボルであり、ランドマーク的な存在として認識されていたことが伺われる。
さて、本稿の第3回目に、モンゴルの仏教寺院の建築様式について解説を行う予定であるが、ここでも貝子廟の配置・建築上の特徴について簡単に述べておきたい。
但し、この問題は本来は建築単体で解決出来る問題ではなくイコノロジー等の仏教美術あるいは修習の階梯を規定する各種の義軌とも関連付けて検討するべき課題であろうかと思われる。仏教寺院における主人公は宗教あるいは学問としての仏教であり、あるいは各種の尊格等であるということにおいてはどの寺院も変わりがないと思うからである。 今回の貝子廟における調査では、非常に残念なことがあった。戦前に長尾雅人先生が貝子廟を調査された時に現地で写真撮影をされた僧侶(写真が先生の著作「蒙古学問寺」に掲載されている)の内のひとりの方が1995年までご存命であったという話を伺ったのである。お名前はジャムヤンドブジュルという。 |
||||
なぜいまモンゴル仏教寺院なのか | ||||
大変残念なことに、戦後はこうしたモンゴル仏教や仏教寺院について顧みられることが余り無かったと言って良いであろう。 モンゴル国(旧モンゴル人民共和国)やブリヤート・モンゴルにおいては1930年代後半に大宗教弾圧が行われている。また終戦後、内モンゴルでは1950年代の強制的な還俗や1965年からの文化大革命を通じてモンゴル人の心の拠り所であった仏教は弾圧された。紅衛兵により仏教寺院に対する徹底的な破壊が行われたため、内モンゴルの仏教も結果としては事実上壊滅状態に陥ってしまった。 社会主義化のプロセスにおけるこうした「極端な」過ちは、かつてのモンゴル地域の豊かな仏教文化とともに、モンゴル仏教に対する研究をも葬り去ったと言える。 また、長い間「ラマ教」とも呼ばれ「淫祠邪教」の様に考えられて来たチベットあるいはモンゴルの仏教についての偏見が無くなるまでに時間がかかったとも言える。しかし最近は、少なくともチベット仏教については見直しが進められて来ておりフィールドワークも含めてかなり研究が進みつつある。チベットの仏教寺院建築について研究する日本人の学者も出てきた。 また、モンゴルの仏教について言えば、例えば大正大学の総合仏教研究所において橋本光寳先生のモンゴル関連の研究について、その業績の再評価と研究が行われており、また愛媛大学の樋口康一先生が言語学の立場でモンゴル語仏典の研究を進めておられる。但しチベットと異なり、戦後のモンゴル仏教研究は今のところは主に文献研究が中心であり、現地におけるフィールドワークを伴う調査は今まではなかなか進まなかった様である。というより、モンゴルの仏教について研究する人自体がそれほど多くはなかったということであろうか。 今回、バトガル・ジョー(五当召)という寺院においても、戦後になってから日本から調査を目的として現地を訪れた宗教学者は東洋大学の菅沼晃先生が初めてであると現地の僧から言われたのは、日本のこうした状況を示唆するものであろうかと思われる。あるいはもちろんこれはこの僧の勘違いであるかもしれないし、日本人の他の分野の学者や研究者(例えば梅棹忠夫先生、1981年)あるいはマスコミ関係者(例えばNHK、1985年)で戦後ここを訪れた人はいるので、宗教学者でももしかしたら非公式の訪問はあったのかもしれない。文献調査を綿密に行った上でフィールドワークを行うという原則を認めるのにやぶさかではないのだがそれにしても戦後半世紀の間現地を訪れる日本人研究者がいなかったと言われているというのは戦前の状況を考えると寂しい限りである。 1990年以降モンゴル国においては民主化が進められ、外国人の旅行が自由化された。ブリヤート・モンゴルやティーワ(トゥワ)においてもペレストロイカとそれに続くソ連の崩壊により変化が訪れた。また、内モンゴルにおいてもこのところ多少引き締められつつある様ではあるが、基本的には中国政府の改革開放路線により一時期よりは自由な雰囲気が醸成されつつある。今まさにモンゴルは我々に門戸を開きつつあると言える。 先に、社会主義体制下での宗教弾圧があったということを記した。そもそもモンゴル仏教が衰退し、モンゴル仏教についての研究も停滞してしまったかに思えるのはまさにここに大きな原因があるともいえる。しかしより重要なことは、この宗教弾圧の事実そのものについて調査を行った文献や記録が戦後は極めて少ないという事実である。この沈黙は何を意味するのか。歴史的事実というものは、それに対する評価は別にしてとにかく事実そのものは記録される必要があると思う。 (以下、次号に続く) |
||||
ジャムチ第八号(1997年 9月25日発行)
|