内モンゴル仏教寺院紀行 その2 らくだ・佐々木 浩 |
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生活の中のモンゴル仏教 | ||
今回は最初に、日常生活に密着した部分からモンゴルの仏教というものを眺めて見たい。 よく言われるように、モンゴル人の名前にはチベット語やサンスクリット由来の言葉が多く見受けられる。 例えば、モンゴル国の著名な作家D.ナツァグドルジ氏の名前はチベット語由来の言葉であり、そもそもは仏教の法具である羯磨金剛である。これは金剛杵の一種であり、密教の修法具として用いられる。これは寺院建築においてシンボル的に用いられることもある。 また、オボーの回りを三回右回りに廻る「右遶三匝(うにょうさんぞう)」にしろ、飲酒の前に三回酒精を撒いて天・地および竈(あるいは人、両親等)に捧げる「セルジム」と呼ばれる風習にしろ、仏教との関連が指摘されている。 地方を旅すると、牧民のゲルや丘の上などのオボーではヒーモリと呼ばれる小さな旗を見かけることがある。小さな長方形の旗で馬(風馬)の絵やチベット文字や・ランツァー文字等が書いてあるものである。橋本光寳著『蒙古の喇嘛教』には「風馬は蒙古語のヒーモリ、西蔵語のルンターである。その意味は『風馬』或は『気馬』である。風馬は風の如く法外なる速力を持っているが故に、物語では四大洲の支配者である金輪王の乗馬となり、朝に出発して夕には世界を一周して帰るとさえ言われている」とあり、その効能についても紹介している。 現在のモンゴルにおいては、ふとした折りにこうした仏教的な伝統に気がつくことがある。よっぽど意識していないと見過ごしてしまう様なことがたくさんある様な気がする。 文学作品についても見てみよう。内モンゴルの著名な作家であり詩人であるサイチョンガ(ナ・サインチョクト)著『砂漠の我が故郷』という紀行文学には以下の様な一節がある。「ここマルガイン・スムでは毎年6月15日からナーダム祭が始まり、当日は相撲を取り競馬をして、14日からはツァム踊りを踊って、弓を射る。15日からはマイダル参りをするなど三日連続して大勢の人が集まって賑わうのだそうだ」(フフバ ートル訳) これは、氏が1940年に留学中の日本から今のシリンゴル盟にある故郷へ帰る行程を綴った作品の中の一節である。ここに「マイダル参り」という言葉が出てくる。戦前の日本の陸軍省発行の『蒙古語大辞典』には 「弥勒仏の仏像を捧持して寺院の周囲を読経し乍ら廻る」 とある。モンゴルではこうした「弥勒供養」とでも言うべき弥勒仏に関係のある宗教行事を、地域により異同はあるが毎年夏(あるいは冬)のほぼ同じ時期に何らかの形で行なっていた。 こうした行事はオボー祭と習合していたり、あるいはナーダムなども同時に行われることが多かった。かつてモンゴル人にとってはこうした宗教行事と接すること自体が、同時に功徳を積むことでもあり、また一年の暦でもあった。 一般の人にとっては、僧によって伝えられるこうした宗教行事や仏教用語は、その本来の定義や意味よりもその「効能」の方が重要であったであろうことは容易に想像出来うるところである。 その結果として、一方で生活と密接に結び付き、その意味で社会において何らかの役割を果たしていたと言える訳である。長い弾圧と抑圧の歴史の下でこうしたモンゴル仏教の文化的な側面は水面下に潜ってしまい、表立っては見えにくくなっている。 |
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バトガル・スム(五当召)について | ||
モンゴル仏教の歴史を考える時、長尾雅人著『蒙古学問寺』等でも紹介されているバトガル・スム(五当召)という寺院は前回紹介した貝子廟とともに重要な寺院である。 この寺院は内モンゴル自治区包頭市の北郊にある。かつての深山幽谷の寺院においても、経済発展に伴い道路整備も進み、開発の波がゆっくりとではあるが押し寄せつつある。漢民族の入植とともに、観光地化も進みつつある。 この寺院の創建については、いくつかの伝説的な記録があり先出の『蒙古学問寺』には、ジューンガル王がこの地で第一代ドィンコル・ホトクト出会ったことが契機となり、その外護により清の乾隆十六年(一七五一年)この地にドィンコル・ドゴン(時輪学堂)が建てられることとなった伝記が紹介されている。また、ツェンベル・グーシ著『蒙古喇嘛教史』にはペカル・チョェリンの名称が見られ、ケーワン・ドィンコル・パンディタの創建になることが記載されている。年代については文献により若干の異同があるが、概ね18世紀中ごろの創建のようである。 この寺院にはドィンコル・ドゴンと呼ばれる学堂があり、代々ドィンコル・ホトクトと呼ばれた活仏が転生し住持した。このドィンコル・ドゴンでは主に天文学や暦学が学ばれていたということである。他に、バトガル・スムにはアゴワ・ドゴンという名称で呼ばれている密教学堂があった。この密教系の二学堂と顕教系のチョエラ、ラムリム学堂二学堂を併せて全部で四学堂により構成され、学問内容的には顕教の方に重点が置かれていた。 また、バトガル・スムはシャンバラとの因縁が深いのではないかということを長尾雅人先生が『蒙古ラマ廟記』の中で指摘されている。シャンバラとはもともとはヒンドゥー教の説話文学『プラーナ』に説かれていた理想郷の説話を仏教が取り入れて須弥山世界説に重ね合わせたものである。
モンゴル地域の仏教寺院がほとんど破壊されてしまった現状ではこの事実を確認するのは困難な状況ではあるが、少なくともここバトガル・スムにおいてドィンコル・ドゴンが中心的な役割を果たしているという事実は、かつてそうした状況があったであろうことを彷彿とさせるものである。 この寺院は幸いなことに文化大革命による破壊をほとんど免れた。当時の状況を知っている元僧侶の方から聞いた話によると、この寺院においては文化大革命当初には漢人が大量にやって来て文物を略奪し、また紅衛兵が包頭から太鼓を打ち鳴らしながら何度もやって来た。後には、これに対して武装民兵が建物をよく守り、紅衛兵等と戦って最終的には退却を余儀なくさせた。 それでも、イフチスと呼ばれた殿宇だけはこの戦闘の過程で紅衛兵により破壊され、これも近年まで修復されずに放置されていたが、近年になってやっと修復され博物館として公開予定である。 現在この仏教寺院は包頭市五当召管理処という政府機関により管理運営されており、その経営について仏教僧の意見が反映される場は極めて限定されている。 しかし、五当召に限らず、かつてのモンゴル仏教寺院には「サン」等と呼ばれた独特の寺院の運営・経済面を支える組織が存在した。サンにはそこに属する牧民や家畜があり、かつてはこうしたサンが収奪の機構であったという様な論調が主流を占めていた。こうした組織はまさに社会主義革命の下では封建主義の残滓として真っ先に否定され弾圧されたものである。一部においては確かにサンが収奪のシステムとして機能していた面もあったのかもしれない。 しかし、私が今回の調査において現地で聞いた話は必ずしもこうした今まで一般的であると思われていた見解とは一致しない。 また、梅棹忠夫著『回想のモンゴル』によれば「ラマ寺院は民衆からの寄進によって、しばしば大家畜群所有者であった。それを搾取ととらえる見かたもあるが、その家畜群は(零細牧民層への)家畜預託制度によって、多数の零細牧民層をうるおしていたのである」といった記述もある。 |
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バトガル・スムの建築上の特徴 | ||
次に、バトガル・スムの寺院の伽藍構成及び建築上の特徴等について紹介してみたい。
従って、その全体の配置は中軸線に沿った構成を取らず、山門が無く、正殿に廂房を伴わずまた墻壁等も存在しない。 その設計はチベットのタシルンポ寺を手本にしており、各殿宇は様々な中にも統一感がありそれらはぎっしりと建ち並んだチベット様式建築郡を構成している」とある。 つまり伽藍配置の特徴を見てみると明確な構成原理が見い出しにくいということである。墻壁(全体を取り囲む様な壁)が無く、自然に溶け込むような配置構成である。前回紹介した貝子廟が明確な左右対象の、墻壁に囲まれた閉鎖的な配置構成を取っているのとは極めて対照的である。こうした全体構成はまさにチベットの仏教寺院に特有の山岳都市的な構成から来ていると考えられる。 これらの堂宇の中で法要等の実践面で中心的な役割を果たすのはツォクチン・ドゴン本堂であるが、先述した様に象徴的にはドィンコル・ドゴンが現在でもこの寺院全体の中では最も重要な建物である。 この寺院の学堂の建築様式上の特徴については以下の通りである。陸屋根(勾配屋根が無い)であること、そして建物外観で特徴的なのは末広がりのシルエットを持つことである。 余談であるが、戦前この寺院に起居していた日本人の世話をしていたという元仏教僧から当時のお話を伺うことが出来た。既に70歳を過ぎておられたこの僧は当時の様子を懐かしそうに話しておられた。 |
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※ ※ ※ 今回の原稿の執筆に当たっても、東洋大学教授菅沼晃先生のご指導をいただき、また同大学院博士課程のバイカル氏にお世話になった。 『蒙古喇嘛教史』については大正大学総合仏教研究所において窪田新一先生のご指導の下で研究を行っているものである。 また、サイチョンガ著『砂漠の我が故郷』の翻訳については早稲田大学語学教育研究所の牧田英二先生の下で行われている研究会の成果であり、一ツ橋大学大学院博士課程フフバートル氏にお世話になったものである。 ここに併せて謝意を表したい。 (以下、次号に続く) |
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ジャムチ第九号(1998年 1月31日発行)
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